地元民ライターが国鉄瀬棚線の歴史をたどってみたシリーズ、いよいよ今金駅(いまがねえき)編!
今回は、おっ母さんから教えてもらったTHE・ジモティーエピソードも交えてお送りします(笑)
それじゃあ、今金駅編行ってみよう!
今までのお話はこちらからチェック↓
今金市街地ってどんなところ?
今金町のなかでも一番人口が集中し、役場・消防・病院・お店などが集結しているところ。
そこが今金市街地だよ。
どうして「今金町」って名前なの?
1891年にまちの開拓がはじまり、毎年町内各地に本州から移住者が移り住んだ。
1893年、今の市街地のあたりに今村藤次郎(いまむらとうじろう)氏と金森石郎(かねもりいしろう)氏ら15戸の移民が入植。
土地の区画・道路の拡張・排水路の工事などを行い、今金町の開拓に尽力なさったよ。
1897年6月13日、瀬棚村から利別村(現在の今金町)が分村。
畑ではじゃがいも・豆類などの栽培・収穫が行われ、山では木材を伐り、美利河ではマンガンが採掘された。
人口も増え、まちが発展していったんだ。
どこまでも広がる森林、草原。
未開の大地を開拓…今なら重機やPCなどにまかせれば、お茶の子さいさいなんだろうけど。
なにせ明治時代の話だったから、苦労がたえなかったわけだ。
厳しい状況の中、次々と仲間たちが去っていった。
そして、金森さんも体調を崩してしまい、ついにふるさとに帰る日が来てしまう。
いよいよお別れのとき。
この場所の地名をどうするか?ってなったんだけども。
2人の名字から一文字ずつとって、「今金」と名付けられたよ。
残念ながら、金森さんは1909年に44年の生涯を終えたんだ。
その後。
1947年、自治制施行50年目を迎えた利別村は町制を施行することに。
「このまちの名前どうする?」ってことになったんだけども、「今金」という名前が北海道内ですでに広く知れ渡っていたから、今金町と改称されたんだ。
参考文献:今金町教育委員会発行「わたしたちのいまかね」、道南ブロック博物館施設等連絡協議会ブログコラムリレー(第131回)今金町開拓の祖・今村藤次郎
(´;ω;`)ウッ…
何度聞いても泣けるエピソードだな
今金町役場から南東に行った先には、今金町交流促進センターあったからんど(温泉)があるよ。
泉質は、ナトリウム―塩化物強塩泉。
なかなかパンチが効いた泉質だよ(入ればわかる)
あったからんどの近くには、つきあかりキャンドルさんの工房があるよ。
キャンドルやハンドメイドアイテムがギッシリ!
工房の中はまるでおもちゃ箱みたい!
今金町に来たら、ぜひ寄ってみてほしいな。
つきあかりキャンドルさんのInstagramもフォロー必須だよ!
今金駅跡地現在のようす
今金駅跡地、今はこんな感じ。
線路と駅名板が残され、「オランダ通り」として整備されているよ。
まちの名前は「いまかね」って呼ぶのに、駅名はなぜか「いまがね」駅なんだよね。
ピノちゃんとイセポ博士の向こうに、風車が見えるね。
風車はデ・モーレンいまかねって名前だよ。
デ・モーレンとは
オランダ語で「風車」を意味するよ
オランダ通りのそばには、函館バスの今金停留所とタクシー会社の営業所が。
国鉄瀬棚線廃線後、地域の足として(とくにお年寄りの移動手段として)活躍中!
そこから国道230号線に向かうと、Aコープいまかね店(@ja_imakane)や法林寺さんがあるよ。
ここに駅があったなんて信じられない
時代とともに
まちも変わっていくんだよ
JKとスイーツ!?おっ母さんの今金駅エピソード
ここからは、おっ母さんのエピソードを。
おっ母さんが女子高生だった頃、瀬棚線に乗って隣町の高校へ通学していたんだ。
学校からの帰り道には、今金駅前にあったおやき屋さん(地域によっては「今川焼き」「回転焼き」とかって呼ばれてるアレのこと)に寄り道しておやきを食べるのが楽しみだったらしい(笑)
え~!いいな~!
タクシー会社の向かいに一五屋(いちごや)さんってお店があったんだが…
リリオさんが中学生の頃は、一五屋さんでソフトクリームやアメリカンサンデー(通称:アメサン)を食べるのが楽しみだったな…(笑)
一五屋さんは、べこもちやお赤飯がおいしいお店屋さんだったよ。
次回予告
この次は、神丘駅に行ってみるよ。
のどかな田園風景が広がる神丘地区、意外な場所に駅の跡がある!?
次回もお楽しみに~!