さっぴよネームひーさんからメールをいただきました!
リリオさんへ
「国鉄瀬棚線の遺構」について記事を読みたいそうです!
ナヌ!?
くわしいいきさつは、2024年4月の早起きブタキャンプと生活まとめを読んでね。
ということで、リクエストにお応えして!
地元民ライターが国鉄瀬棚線の歴史をたどってみた、というシリーズで投稿します。
まずは、イントロダクション的な感じで。
登場人物の紹介や、瀬棚線の思い出話にお付き合いください。
地元民ライターが国鉄瀬棚線の歴史をたどってみた登場人物
かんたんに、登場人物の紹介から。
- 名前:ピノちゃん
- 年齢:12歳(8月8日で13歳になった)
- 将来の夢:考古学者
エレくんとピエちゃんの娘。
考古学者になりたくて、イセポ博士に弟子入りした。
- 名前:イセポ博士
- 年齢:16732歳
- 職業:考古学者
弟子のピノちゃんがかわいくてしかたない。
リリオさんのバイトにムリヤリ付き合わされているが、まんざらでもなさそう。
- 名前:メガじーちゃん
- 年齢:95歳
- 職業:農業
ピノちゃんの曾祖父。
瀬棚線開業の年(1929年)生まれ。
瀬棚線とは?
国鉄瀬棚線(以下:瀬棚線)は、1929年から1987年の間に国鉄が運営していた鉄道の路線のこと。
長万部町の国縫駅から旧瀬棚町の瀬棚駅まで、48.4kmの距離を蒸気機関車や気動車が駆け抜けていったんだ。
瀬棚線の開通前は
客馬車や定期乗合自動車が運行していたそうだよ
えっ?馬車!?
馬車から定期乗合自動車、そして鉄道へ
馬車が走っていた頃(1910年頃)は、当然道路は舗装されていない(つまり砂利道)
馬車の車輪から振動が伝わって、乗っていると疲れたらしいよ。
1919年にようやく道路が整備、そこで6人乗りの定期乗合自動車が登場。
国縫~瀬棚間の移動時間も、大幅に短縮されたんだって。
運賃がけっこう高くついたらしいけど、それでも毎日満員だったとか。
農産物・鉱物資源・木材など、今金町ならではの恵みを各地へ届けたい。
鉄道があれば資源を遠くまで運び、それを売ることができる。
そうすれば、この土地はさらに発展する。
そんな思いが、瀬棚線実現に向けて多くの人を動かしたんだ。
タコ部屋の悲しい記憶
ここからは、衝撃的かつ悲しいお話になるけど…。
「タコ部屋労働」を知っているか?
じーちゃんが元気だった頃に聞いた話なんだけど、瀬棚線工事にあたって多くの人が携わった。
当時は今みたいに重機なんてないから、当然すべての作業が人力で行われる。
なかでも、遠くから出稼ぎに来ていた人たちはいわゆる「タコ」と呼ばれ、強制労働ののち命を落とす人も少なくなかったそう。
ハードな肉体労働で満身創痍・疲労困憊、食事も満足にできない。
逃げても捕まる。
そして、監禁・暴行・果ては生き埋めなど…。
今では信じられないことがあったと、記録にも残されているよ。
美利河トンネル付近と花石地区の瑪瑙寺付近に、「瀬棚線鉄道工事殉職者慰霊碑」が建てられているんだ。
念願の瀬棚線開通、そして廃線
1929年12月13日、国縫駅から花石駅間が開業。
1930年10月30日、花石駅から今金駅間が延伸。
そして、1932年11月1日に今金駅から瀬棚駅まで全線開通。
まちの資源が各地に輸送されたり、通勤・通学の利用があったり、当時はにぎわいがあったそう。
…でもね。
徐々にモータリゼーションが進み、鉄道の利用者がどんどん減っていった。
残念ながら国の方針で廃線が決定、1987年3月15日に「さよなら瀬棚線」が運行。
そして、廃線となったんだ。
その後は、函館バスが運行。
そして、今に至るよ。
※参考文献:今金町教育委員会発行「わたしたちのいまかね」
参考文献「わたしたちのいまかね」は
ピリカ旧石器文化館で購入できるよ
瀬棚線の思い出
今でも、うっすらとおぼえている…。
季節は初秋、少しずつ朝晩寒くなって来た頃。
黄昏時、お父・おっ母と3人で瀬棚線に乗ってお出かけしたんだよね。
車両の天井についている扇風機が、乗客にそよ風を送りつづける。
まだ幼かったリリオさんにとって、瀬棚線は未知の世界だった…。
リリオさんが瀬棚線に乗ったのは、その1回だけ。
今となっては、とても貴重な体験だったな。
次回予告
さて、つぎからは駅の跡地を調査するよ。
今金町の玄関口、美利河駅(ぴりかえき)について投稿するね。
美利河地区は、鉱物資源に恵まれた土地。
メノウ・マンガン・砂金…ゴールドラッシュで賑わった、そんな歴史があるよ。
次回もお楽しみに~!!